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リヤカーの博物館
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  リヤカーの博物館 リヤカーは何語か?
  リヤカー 大正10年前後に日本に渡来した側車付きバイクをサイドカーという呼称で呼んでいた。それらが、街中を走るのを見るに付け改良に長けていた日本人は、 それをパイプで作成し自転車に取り付けられるようにした。
それに触発された町の発明家が、横(サイド)より後(リヤー)の方がたくさん積めるだろうと考え、 それまで主流だった大八車の機能も加えてRearCarを考案し、リヤカーと命名した。という訳で、いわゆる和製英語である。
 

リヤカーの博物館 リヤカーの誕生とその歴史
  リヤカーの博物館 ムラマツ車両 “リヤカーは何語か?”で触れているようにリヤカーの最初の登場は 大正10年頃である。
大正12年9月1日に発生した関東大震災に罹災した人達のうち上野の山に 家財道具を積んで逃げる人がリヤカーを使っている写真が新聞に載っているから、それ以前に生産されている ことはまちがいないだろう。
当初試行錯誤の上、自転車の後ろに繋げて 使用されたリヤカーは、その頃高価で一般的入手が 困難だった自転車と取り付けての使用というよりは、取り付けず、人の手によって引くことから始められた のであろう。
諸説が在るが、総合的に判断すると、当時 秋葉原駅近くの総武線の高架下を利用した 工場で、スクーター及び自転車の部品工場を営んでいた中村銀造氏経営の中村銀輪社にて製造されたのが最初であるという説を 当博物館としては採りたいと思う。
 
  リヤカーが流通 寓話@:前述の中村銀輪社二代目社長中村和雄(故人)の言に依ると 「朝空の箪笥が夕方になるとお金が一杯で閉められなくなった程だった」という。戦前から戦後にかけてのリヤカーが流通の 主たる搬送器具として確たる位置づけを持っていた頃の夢物語である。
現在は望むべくも無いことでメーカーとしては残念な限りである。
 
  リヤカーの生産 寓話A:前述の中村和雄氏の話によると リヤカーは市中で直接小売りするだけで無く、地方の自転車屋さんに 販売していたらしく、上野から本州北部に出て新潟辺りを皮切りに日本海側を東北方面に向かい青森から太平洋側を南下して得意先を各地の温泉を転々としながら、集金の金を見せ金に良い思いをして廻って来ると、それで一年分の生産計画が立てられたという。  
  リヤカー作りの工程 これも、平成10年の今考えると夢の又夢という処である。 Aで少し触れたがリヤカーはフレームだけを貨車便にて地方発送しており、それを自転車屋さんが自転車用タイヤと同じように組み立てたリヤカー車輪を取り付けて小売をしていたのである。(現在は自転車屋さんもコツコツ労働しようとする姿勢を持たないため、 車輪等も完成でリヤカーメーカーから出荷することが多いが) そんなわけで、地方発送に便利な秋葉原貨物駅が近いことと、生鮮市場が(未だ太田市場にならない頃) 秋葉原の側で、リヤカーの需要も多く在ったことも加わり リヤカー屋さんは中村製作所から暖簾分けされて秋葉原周辺に小さな工場を持つに至ったため創生期にはリヤカー屋さんは秋葉原駅周辺に多かったのである。  

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